政治入門②投票率0%の民主主義

2023/03/12

目次

  • 選挙なんて誰得?選挙を棄権しても罰則はない
  • 選挙って何だ?投票率0%の妄想
    • 民意を反映しない
      • ルールの話は司法の問題
      • 民意が反映している状態ってどんなよ?
      • 妥協点としてのボーダーライン
    • 実際成立しちゃってる?
      • 民主主義やめたってよ
  • そろそろ新しい政治観が必要かも
    • 投票棄権は自己責任?
    • 選挙の競争性とぼっちのパリピ

選挙なんて誰得?
選挙を棄権しても罰則はない

「大人になったらきちんと投票に行こう」
「政治参加は国民の責務だ」


私が選挙権を得た頃は、選挙に行かないなんてけしからん、というのが世の風潮だった気がします。

そして、それで話は終わりでした。

投票率の低下は当時から言われていましたが、それでもそこそこの水準だっので、今ほどシリアスな話題では無かった気がします。


しかしいよいよ、投票率がボーダーラインを割りそうです。
あるいはすでに割っているのかもしれません。

今日、改めて考えたいと思います。


選挙に行かないことはどうしてけしからんのでしょうか?
投票率が下がると何がやばいのでしょうか?


何となくみんな選挙に行かなくなると、何かしらまずい事が起きそうな気はするんですが、その正体は未だモヤモヤしているように感じられます。


ちなみに2023年3月現在、投票を棄権しても、特に罰則はありません。

選挙って何だ?投票率0%の妄想

一つの妄想をしてみたいと思います。

大した話じゃないです。

むしろしょーもない話です。

誰も選挙に行かない世界の話です。

それは、ある衆議院議員選挙で突然起こりました。


特に選挙制度の変更や社会の変革があったわけではないのですが、『何故か』有権者全員が選挙に行く気が全く起こらなくなりました。

結局、有権者全員が投票を棄権してしまいました。


別に選挙に対する何らかの妨害工作があったわけではありません。
投票日が家から一歩でも出たら命の危険を感じるほどの凄まじい荒天だったわけでもありません。


みんな行こうと思えば行けたはずなんですが行きませんでした。

ちなみに候補者はいつも通りいました。


彼らからすれば、まさか誰も投票しないとは露ほども思っていません。
選挙期間中は朝から晩まで全力で街頭演説もしていました。
報道の取材に対して「手応えを感じています!」とか訳の分からんことを答えてしまったことは痛恨の極みです。


通常、候補者はその選挙区での投票権があれば自分に投票します。
ところが、何故か彼ら自身も投票しませんでした。

この妄想を元に、選挙って何?ということを考えたいと思います。

もう少し具体的にいうと、
我々有権者は選挙に参加することによって何をしているのか?
ということです。

その前段階として、ここでは投票率0%が、
 

  1. もし成立しないのだとしたら、どのくらいの投票率であれば成立したのか?
  2. もし成立するのだとすれば、それをどう正当化するのか?


を考えたいと思います。

民意を反映しない

ルールの話は司法の問題

投票率が0%となれば、民主主義唯一の正義である民意の後ろ盾は0です。


私の民主主義観からすれば、得票数が0なら当然落選が妥当な気がします。


が、いざ落選させようと思うと案外難しいはずです。


選挙結果は選挙のルールに則って決定します。
となれば、まずはルール的にどうなんだと考えます。


ところが、おそらく選挙のルールは投票数0のケースを想定していません。

それもあってか、機械的にルールに従った場合、投票数0で得票数0は落選になるのか怪しいように感じます。

法律家のご意見を伺いたいところです。


ルールの詳細は、公職選挙法の第九十五条あたりをあたってみてください。
これはこれで、面白そうなテーマなんですが、ちょっと今回の趣旨からは外れてしまいます。

ルールに則って判定した場合どうなのかは政治と言うより司法の問題です。 司法の判断が納得できるような結果になるように、ルール自体をどのような形にしておくべきかを考えるのが政治の役割のはずです。


ルール上、成立するのか成立しないのかどっちなの?ではなく、
成立させるべき?成立させるべきじゃない?を考えるべきでしょう。


と言うことは、例えルール的に投票率0%が無効だとされたところで、政治の問題はいまだに手付かずのままです

民意が反映している状態ってどんなよ?


ここからが、ようやく本題です。
なぜ成立させるべきではないと考えるのでしょう?

ざっくり言えば「得票数0の国会議員は民主主義的にアレじゃね?」だからです。

投票率0%の選挙が何かまずい気がするのは、政治に有権者の意思が反映されないんじゃないかという疑念があるからです。


それでは一体、投票率が何%であった場合、有権者の意思が政治に反映しますか?

ちなみに、同じく公職選挙法の第百条無投票当選ってのがあります。


もし、投票率0%が民主主義的にアウトなら、結構アウトなルールですよね。

投票の機会すらない選挙って、大丈夫なんですかね?


投票率0%は、投票できたにも関わらず、結果的に有権者が投票しなかっただけです。

比較的にはむしろ民主主義的じゃないか、とすら思えてきます。

なぜなら、投票の棄権はそれ自体は紛れもなく有権者本人の意思だからです。

その決定に従って行動した結果が棄権だっただけです。


結果としての投票率0%は、有権者の何らかの意思の表れである可能性はあります。


ところが非常に困ったことに、棄権者の意思を政治に反映させるような仕組みにはなっていないのが選挙です。

選挙があったところで、有権者の意思が政治に反映しなければ意味はありません。


これは重要なことで、選挙があるから民主主義ではないということです。
だってそうでしょ?

民意が反映した政治だから民主主義なんじゃないんですかね?

妥協点としてのボーダーライン

ただ一方で、その理屈を突き詰めていけば、投票率は100%でなくてはならなくなります。

だとすれば、今までに理想的な民主主義は一度も実現していないことになります。

また、ちょっと今後も実現する気がしません


現実には、民主主義は努力目標程度のことか、あるいは単に机上の空論であり、出来ることは現実的に妥協できる辺りにボーダーラインを設定するくらいです。


ところが、さて、何%にボーダーを設定すべきでしょうか?

我々はボーダーラインにどんな根拠を求めたら良いのか全く手掛かりがありません。


もし仮に「民意の反映度合い」みたいなものを基準にしようと考えたとします。

ところが、実際の投票結果が、本来反映すべき民意を達成しているかどうかを答え合わせするには、民意そのものがどんなものだか『正解』を先に知っておく必要がありませんか?


私が混乱しているのでしょうか?


今学期の成績が既に決まっているなら、わざわざ期末試験なんてやる意味はありません。

試験などせず、さっさと成績をつけたらいいだけです。


ボーダーを設定したところで、それを超えた超えないに意味がありません。


訳が分からなくなったところで、もう一方を見ましょう。

実際成立しちゃってる?

成立するのだとすれば、それをどう正当化するのか?


ルール的には、さっきの無投票当選を根拠に投票率0%の成立を支持することができるかもしれません。

無投票当選がOKな根拠がますます気になります


政治的に問題なのは、やっぱり同じ点です。

「得票数0の国会議員は民主主義的にアレじゃね?」


投票率がどんなに低くても選挙を成立させるべきなのは何故でしょう。

民主主義やめたってよ

例えば、「政治的な空白を作るべきではないから」というのはどうでしょう?


確かに、選挙をやり直したところで、必ずしも投票率が上がるとは限らないですもんね。

というより、同じことを繰り返したって同じ結果である可能性は高いですし、現実的には投票率はむしろ徐々に下がるでしょう。


元が0ならうっかり上がるかも知れませんが。


ただただ時間とお金と浪費するだけかもしれません。
いつまで経っても政治は前に進みませんし、それは有権者にとっても損失です。

政治は安くて早いに越したことはありません。

しかし、政治的な空白がどれだけ損失か知りませんが、これは論外です。

民主主義を捨てると宣言しているに等しいからです。


民主主義ってのはそもそも結構やばいものです。
有益だからとか優れているからとかが、単にそれだけでは価値を持ちません。


たとえ人類史上稀に見るほど優れた政治だろうと、たとえ疑いようもなく完璧な政策だろうと、民意の後ろ盾が無ければ速攻でボツなんです。


偉大な英雄の独裁による完璧な善政。

桃源郷に住まうかの如き幸せな隷属生活。


うっかりすると民主主義を手放してしまいたくなる誘惑は全然有り得ます。

その誘惑に打ち勝ってなお、権力を特定の人間や集団に集中させることは拒否するという断固たる決意が民主主義です。


民主主義を蔑ろにしてまで優先される価値は、我が国の政治においては存在しません。


当然「ちょっと面倒くさいから」みたいなノリで捨てませんし、捨てられません。
捨てるときは、それぞれの自治体のルールに則ってキチンと捨てましょう。

なので、民主的であるよりも大事な事があるって類のロジックは、今んとこ全部NGです。

そろそろ新しい政治観が必要かも

投票棄権は自己責任?

となると、成立させるべきと主張するには、投票率0%の選挙は既に民主主義的なんだと説得しなくてはなりません。
ここでご登場頂くのが『自己責任論』です。


すなわち「投票者は棄権してしまえば自分の意思が政治に反映しないことはわかっていたはずだ。にも関わらず棄権したのであれば、それは自由意志による個人の決定であり、たとえ棄権によって不利益を被ってもそれは自己責任である。」ってやつです。


もうこの時点で、なーんかアレな感じですけど、もうちょっと聞いてみましょうか。
 

「そもそも選挙とは、有権者全員に平等に与えられた1票を元手に政治が分配する資源を奪い合う自由競争であり、民主主義とは有権者各人が他者の介入を受けることなくそれぞれが利己的かつ合理的な投票行動をした結果、選挙市場の見えざる手によって資源の最適な分配が実現す・・・・」
後半の「棄権による不利益・・・」からは完全に、妄想が暴走しているんですが、投票率0%を支持するこのロジックは案外ちょくちょく出会います。


「ごちゃごちゃ言わず、選挙の結果を民意と呼べばいいだろ!」です。

シンプルに、棄権も意思ってのは確かにその通りです。

ただ、そこで言われている意思は、政治に反映させたい意思ではなく、投票行動におけるオプション選択の意思です。

政治に対する意思は反映しないことはさっき確認したんですが、このモデルによれば、どうやら有権者はそもそも政治に対して積極的に反映させたい意思なんてないようです。
 

ただ、この市場原理モデルが説得力を持つには、どの選択をすればどんな結果になるかが考えたり調べたりすれば分かるという実感がある事が前提で、しかも、選択に正解した場合に得られる利益がそれなりに大きいことになります。



私は前者も後者も怪しいと思っています。

確かに選挙には競争的な要素があります。

ただ、競争しがちなのは有権者ではなく候補者ですし、それも勝手に競争してます。

少なくとも有権者が競争に付き合う理由はないです。



有権者が1票を元手に奪い合うという資源ですが、それは奪い合わなくても分配されます。

分配された資源そのものはそれなりに大きいでしょう。

しかし、仮に奪い合ったとしても、奪い合わなかった場合と比較して、分配に差が出るのかかなり怪しいです。

有権者にとって選挙は原理的には、あるいは経済合理性からは競争にはなり得ないはずなんです。

競争に参加するインセンティブが有るんだか無いんだかわからないにも関わらず、「棄権は自己責任だ」と言われたところで何も駆り立てられません。

 

選挙の競争性とぼっちのパリピ

選挙はかつて、損得を超えて盛り上がる町内運動会のような地域のイベントとして楽しまれていた歴史的な経緯があります。


そんな、おらが村の祭りの名残として、候補者の競争をエンタメとして楽しむ習慣は今もありますが、応援する有権者は損得ではなく単に楽しんでいるだけだと考えるのが自然でしょう。

賞品とかめっちゃショボくたって、綱引きとか出ちゃった日にゃ気付いたら汗びっしょりってのが人情ってもんです。


有権者のエンタメを求める心理と、候補者の現実的な競争が結びついちゃったのが、かつての選挙です。
 

ただ、そこに存在する有権者と候補者の素朴な一体感は選挙としてはこれ以上ないほど健全に思えます。


どういう意味で健全なのか?


有権者と候補者がお互いを「私達」と呼ぶことが自然だってことです。
彼らはお互いが仲間同士だという認識を共有しています。


さらに言えば、対決相手の陣営さえも仲間かもしれません。
エンタメの為の競争、競争のための競争です。
誰が勝とうが、町内の親睦は深まり、当選者も町内の代表して町内全体のために働きます。


今や選挙はエンタメとしては寂れきり、成れの果てが投票率0%です。

ポツンと取り残された候補者たちは、神輿を降りてくじ引きしています。
候補者は仲間どころか、町内会費に手を突っ込んで良い暮らししてやろうと醜く争う浅ましい連中にしか映りません。

誰を選んだところで、政治が良くなるどころか悪くなる一方じゃないか!


こんな有様だとしても有権者がけしからんのでしょうか?


我々はそろそろ選挙観と共に政治観そのものをシフトすべき時が来ているのかもしれません。